LOGIN切断された固定電話の受話器は、もう何も喋らなかった。
澪は耳へ押し当てたまま、受話口の奥に残った静電気のようなざらつきを聞いていたが、透の声も、女の囁きも戻ってこない。
数秒前まで確かに「戻り橋」と聞こえ、「俺を見つけても、絶対に触るな」と告げられたはずなのに、今は自分の呼吸だけが黒い樹脂へ跳ね返っている。
常世荘二〇三号室の窓から差す午後の光は明るく、階下では掃除機の音までしているのに、澪の掌だけが昨夜の廃校へ取り残されたように冷えていた。
「透は死んだ」
美月の声は、慰めるためのものではなかった。
救命の現場で何度も死亡確認をしてきた人間が、自分自身へ事実を言い聞かせるときの硬さがあった。
彼女は澪の正面へ座り、首へ巻かれた磁気テープの跡、呼吸、頸動脈、瞳孔を一つずつ思い返すようにゆっくり言葉を続けた。
「私が確認した。呼吸はなかった。頸動脈も触れなかった。瞳孔の反応もなかった。あの時点で、生きていると判断できる所見は一つもなかった」
澪は受話器を置けなかった。
放送室で倒れていた透の身体を思い出すと、冷え始めていた髪の感触まで掌へ戻ってくる。
美月が間違えたとは思いたくないし、透が死んだという事実を受け入れたいわけでもない。
けれど、仮にあのあと奇跡的に蘇生したとしても、七刻女学校から遺体だけが消え、誰にも発見されないまま一時間以上離れた戻り橋へ移動し、常世荘の切断電話へ連絡してきたという説明にはならなかった。
「生存の可能性を完全にゼロにはできない」
美月はそう付け加えたが、声は重かった。
極端な低体温や薬物、特殊な状況で生命兆候が極めて弱くなる例はあるものの、透の状態と一致する保証はない。
しかも遺体が消失した時点で、再確認も検査もできていない。
「だから私は、死んだと確認した自分の判断を変えない。でも、今の電話が本当に透なら、何か別の事実がある」
美月はそう言い、澪の手から受話器をそっと離した。
朔は固定電話の本体を机へ移し、底面の螺子を外していた。
常世荘に以前から置かれていた古い家庭用電話で、外装には黄ばみがあり、受話器のコードも何度か交換された跡がある。
壁へ伸びる電話線は途中で切断され、被覆の断面には古い埃が詰まっていた。
少なくとも今日や昨日に切られたものではなく、現在の通信回線へ物理的につながっていないことは目で見ても分かった。
「内部に通信モジュールを入れれば、見た目だけ古い電話でも着信させられる」
悠斗が言うと、朔は否定せず、基板を露出させた。
電池式の無線装置、小型スピーカー、音声再生用の記録媒体が入っていれば、七刻女学校で何度も見た仕掛けと同じように人間の手で説明できる。
しかし電話機の内部には、古いベル機構と単純な回路しかなかった。
後から何かを外した痕跡もなく、螺子の内側へ積もった埃まで均一だった。
朔は基板の両面を撮影し、電話機の底へライトを当てた。
悠斗も覗き込み、蓮司は切断された電話線の先を壁側まで確認する。
朔は電話線へ外部から誘導電流を流し、ベルだけ鳴らした可能性も考えたが、その場合でも透の声を受話器へ送る経路がない。
室内の別スピーカーから声を聞かせたなら音の位置が違うはずで、澪だけでなく美月たちも受話器の中から声が流れていたと確認していた。
美月は受話器を置いた澪の手を見て、掌に細い赤みが残っていることへ気づいた。
強く握りすぎただけで傷はなく、受話器にも血や濡れた跡はない。
それでも澪には、透の声を聞いたときの冷たさが指の節へ残っているように感じられた。
電話機を分解していく朔の手元を見ながら、もしこれも七刻女学校と同じ仕掛けなら、今度こそ機械の中に答えがあってほしいと思った。
説明できる装置が見つかることを願う自分が、怪異を否定したいからではなく、透が本当に死者として電話をかけてきた可能性を認めたくないからだと気づき、澪は視線を伏せた。
朔は受話器のコードまで外し、接点の腐食と線の断面を順に確かめた。
古いベルを鳴らすだけなら隠し電源を別の場所へ置く方法もあるが、電話機の筐体にも机の裏にも新しい穴はなく、誘導用の細い線も見つからない。
壁の切断線へ測定器を当てても電圧は出ず、ベルが鳴った直後とは思えないほど完全に死んでいた。
蓮司が「今鳴ったこと自体を証明できるか」と訊くと、朔は胸元のカメラへ音が残っていることを確認し、美月や悠斗の端末にも同じベル音が記録されていると答えた。
「何もない」
朔はそう結論づけた。
「録音だった可能性は残る」
その言葉に蓮司が彼を見る。
朔は視線を逸らさず、透の過去音声を合成して、別の場所から音を飛ばした可能性まで消えたわけではないと説明した。
ただ、現時点では方法が見つかっていない。
七刻女学校では必ずどこかに残っていた人為的な部品が、今回は一つも出てこなかった。
祭壇に残された黒い受話器は、固定電話のものより一回り大きかった。
蓮司が透明袋越しに持ち上げると、表面には細かな擦り傷があり、耳当て部分には長年屋外で使われたような白い劣化が出ている。
家庭用の受話器と違い、内部には金属製の補強が入り、コードの根元には引きちぎられたような断線跡が残っていた。
返し雛が消えた場所へ突然現れたという状況を除けば、古い公衆電話から外された部品に見えた。
「番号がある」
蓮司が底面をライトへ向けた。
黒い樹脂へ薄く刻まれた英数字は摩耗していたが、完全には消えていない。
悠斗がスマートフォンで接写し、勤務先の不動産管理データベースへログインすると、古い物件資料や周辺設備の保守記録まで検索範囲を広げた。
常世荘の管理履歴と同時に取り込まれていた旧地域資料には、公衆電話、街灯、消火栓などの撤去記録も一部残っているという。
検索には数分かかった。
奈々香は返し雛の消えた祭壇から距離を取り、美月は透からの通話を記録したカメラ音声をもう一度聞いている。
澪は二〇三号室の窓際に立ち、遠くの住宅街を見ていた。
昨日までなら、死者から電話がかかるという噂を記事へ書くときも、最後には仕掛けか偶然へ着地させられると思っていた。
今は、説明できるものを見つけるたび、その隣に必ず説明できない何かが残る。
「出た」
悠斗の声に全員が集まった。
端末画面には、二十年以上前の道路設備台帳が表示されている。
山中の旧道、戻り橋付近、公衆電話一基。
機器番号の一部と、蓮司が持つ受話器の番号が一致していた。
「本当に戻り橋の?」
「ああ。少なくとも、この受話器は同じ電話機に取り付けられていたものとして記録されてる」
奈々香が祭壇を見る。
何でそれがここにあるのと問いかけても、答えられる者はいない。
悠斗はさらに撤去記録を開いた。
戻り橋の公衆電話は、旧道で交通事故が相次ぎ、道路改修に伴って撤去されたとある。
電話機本体は回収後に廃棄処分となっているが、備考欄だけが異様だった。
〈現場回収時、受話器欠損〉。
撤去作業員が到着した時点で、受話器だけがなくなっていた。
器物損壊か盗難と考えられたが、古い公衆電話の部品一つだったため大きな捜査にはならず、そのまま所在不明として処理されている。
悠斗が日付を拡大した瞬間、蓮司が黙って常世荘の入居記録を引き寄せた。
「十三年前」
その年は、常世荘二〇三号室で最初の女性が正式な行方不明者となった年だった。
先ほど録画映像にだけ現れ、押し入れを指さしていた女性。
澄花が壁の記録に〈一人だけ説明できない〉と残し、〈この人は常世荘で死んでいない〉と書いていた人物だった。
「受話器が消えた正確な日は?」
蓮司が訊く。
悠斗が台帳の日付を読み、蓮司は女性の失踪届が出された日と照合した。
完全な同日ではない。
だが女性が最後に目撃された期間の中に、戻り橋の公衆電話から受話器がなくなった日が入っていた。
「最初の失踪者が戻り橋で死んだ。澄花はそう書いてた」
澪の声が自分でも分かるほど小さくなった。
戻り橋から持ち込まれた可能性のある人形と、同じ時期になくなった受話器が今ここにある。
蓮司は偶然とは言わなかったが、関連を確定するには足りないと返した。
誰かが十三年前の記録を調べ、わざと一致する部品を用意した可能性もあるからだ。
「でも、管理番号まで合う受話器をどうやって探すんだよ」
悠斗が苛立ったように画面を叩きかけ、寸前で手を止める。
廃棄された公衆電話の部品が十三年間どこにあったのか、記録はない。
初期の壁の男が盗んだのか、最初の失踪者が持っていたのか、後から誰かが拾ったのか。
可能性だけが増え、どれも証明できなかった。
戻り橋の古い資料には、受話器の紛失以外にも不自然な記録が残っていた。
公衆電話の撤去理由は道路改修となっているが、その数年前から夜間の事故通報が集中し、同じ電話から「橋の下に女がいる」という匿名通報が繰り返されていた。
警察が現場へ行っても誰もおらず、悪戯として処理されたものが複数ある。
さらに最初の失踪者が消えた前後だけ、通話料金の記録が存在しない時間帯に発信履歴らしき異常値が残っていた。
「電話機自体に故障があった可能性もある」
朔が画面を見ながら言った。
古い交換機や計測記録なら誤差も考えられ、十三年前の数値だけで怪異を示すものにはならない。
それでも蓮司は、澄花がこの女性の死んだ場所を常世荘ではないと書き、具体的に戻り橋まで残したことを重く見ていた。
妹が何を根拠にそこまで辿ったのか、その記録だけが破られたノートと同じように欠けていることが、彼には偶然と思えないらしかった。
澪のスマートフォンが震えた。
全員の視線が一斉に向く。
差出人は確認する前から分かっていた。
椎名澄花。
八年前から変わらない番号が画面に表示されている。
澪はメールを開いた。
本文は短かった。
二つ目を返してください。
戻り橋。 午前零時。
奈々香が時計を見る。
午前零時まではまだ数時間ある。
戻り橋は常世荘から車で一時間半ほどだが、旧道の一部は通行止めで、徒歩で入る区間もあると蓮司が以前の調査資料を確認した。
現地へ行くにしても、警察への連絡と透の件を共有する必要がある。
さらにメールの下へ文章が続いていた。
電話が鳴っても、
最初の三回は出ないでください。
美月の眉が寄る。
「三回?」
澪は画面をスクロールした。
最後に一行。
四回目は、必ず出て。
部屋の中が静まり返った。
最初の三回と四回目で何が違うのか、誰からの電話なのか、出なければ何が起きるのかは書かれていない。
七刻女学校でも「返事をしろ」「耳を塞ぐな」という規則は、怪異そのものより人間の仕掛けによって強制されることが多かった。
だからこそ、今回も誰かが着信回数を利用して行動を誘導しようとしている可能性は高い。
「従う前提で考えるな」
蓮司が言った。
「まず戻り橋の通信設備と事故記録を調べる。公衆電話は撤去済みなんだろ。今そこに何が残っているか確認する」
朔も、四回目に出ろという指示自体が、人間の犯人に会話を成立させるための条件かもしれないと指摘した。
澪はメールの送信時刻を確認した。
受話器の管理番号を特定した数秒後で、こちらの会話を聞いていたようなタイミングだった。
誰かが二〇三号室の盗聴設備をまだ使っているなら説明はつくが、壁の中から見つけた機器はすでに電源を外し、蓮司が二〇二号室側の配線も切っている。
悠斗が管理会社のアクセス履歴を開くと、例の削除済み社員番号からの接続は十五分前を最後に途切れており、今この瞬間の操作を示す記録はなかった。
「現地へ行くなら、二手には分かれない」
美月が強く言った。
透の失踪後、誰か一人になることが最も危険だと全員が理解している。
戻り橋へ向かう前に警察へ透からの通話記録と受話器の管理番号を渡し、旧道へ入ることも伝える。
蓮司は車を二台使っても常に互いの位置を共有し、徒歩区間では六人が離れないようにすると決めた。
奈々香は「午前零時までに着かなかったら」とメールを見たまま訊いた。
誰も答えを知るはずはないが、七刻女学校では指定時刻に門が閉まり、常世荘では逃げた女から住人になると脅された。
送り主が時刻そのものを装置の起動条件へ使っている可能性は高く、無視するなら無視するだけの準備が必要だった。
蓮司は要求へ従うのではなく、指定された時刻に何が仕掛けられているか確認しに行くのだと、言葉を選ぶように告げた。
その説明を聞きながら、澪は透の最後の警告を思い出していた。
戻り橋へ来るなではなく、「俺を見つけても、絶対に触るな」。
そこにいる透が本物であれ偽物であれ、誰かは澪たちが彼へ近づく場面まで想定している。
死体として触れた友人を、今度は生きている姿で見つけたとき、自分が手を伸ばさずにいられるのか、澪には自信がなかった。
その瞬間、切断された固定電話が鳴った。
りん、と古い金属ベルが二〇三号室へ響く。
澪の肩が跳ね、美月が反射的に電話機を見る。
朔はすぐ時計とカメラを確認し、悠斗は壁から切れたままの電話線へ目を向けた。
誰も受話器へ触れなかった。
一回目。
ベルは数秒で止んだ。
奈々香が息を吐く前に、もう一度鳴り始める。
二回目。
澪はスマートフォンのメールを握りしめた。
最初の三回は出ない。
四回目は必ず出る。
誰かが、こちらが文章を読んだことまで確かめるように、正確な間を置いて電話を鳴らしている。
二回目のベルも止まった。
静寂が戻る。
澪は電話から目を離さなかった。
数秒後、三回目の呼び出し音が鳴り始めた。
午前二時五十分。 美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。 奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。 さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。 犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。 悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。 警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。 その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。 画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。「今度は俺かよ」 発信者は〈黒瀬悠斗〉。 自分自身からの着信だった。 誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。 悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。「ふざけんな」 時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。 悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。 そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。 顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」 理屈だけなら間違っていなかった。 奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。 本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。 澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。「座っ
午前一時五十二分。 蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。 通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。 それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。 美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。 奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。 朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。 三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。『早乙女美月』 スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。 救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。 それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。『死亡予定時刻、午前二時二十七分』 車内の時計は一時五十二分を示していた。 残り三十五分。 奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。 美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。「美月……」「大丈夫」 奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。 それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。 奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」 奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。 美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。 犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。 ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。 美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。 七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。 止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。 美月自身が補充しているため、本来なら一本増
午前三時十三分まで、二時間を切っていた。 園村香苗を模したシリコン人形が置かれた軽自動車を警察へ引き渡すための連絡は、依然として電波妨害に阻まれている。 山道を徒歩で抜ければ通信圏まで戻れる可能性はあったが、奈々香の死亡予定時刻を告げた者が、その行動まで見越して罠を置いていない保証はない。 蓮司は車と倉庫で見つかった仕掛けを見回したあと、逃げるのではなく、相手が午前三時十三分に何を起こすつもりなのか先に探すと決めた。「予言じゃないなら、予定表だ」 悠斗が低く言った。 奈々香を一時十三分に殺すため、犯人はブレーキ配管を切り、倉庫へ落下装置を用意していた。 二つとも見破られたあと、予定時刻だけが三時十三分へ変更されたなら、新しい罠をすでに準備しているか、離れた場所から起動できる仕掛けへ切り替えた可能性が高い。 死亡予告を恐れるだけでは、犯人が用意した選択肢の中を動かされ続けることになる。 奈々香は蓮司の車の後部座席へ移された。 二台とも遠隔遮断器を外したため電源は復旧していたが、ブレーキへ細工された奈々香の車は動かせない。 蓮司の車も走らせず、橋と電話ボックス、山林のいずれからも距離を取り、周囲を四方向から確認できる路肩へ停めた。 美月が奈々香の隣に残り、窓とドアを内側から施錠し、何があっても一人で外へ出ないよう約束させた。「眠ったら駄目?」 奈々香は疲れ切った顔で訊いた。 二度も死亡時刻を告げられ、髪を根元から引き抜かれたうえ、橋の上で長時間緊張を続けている。 美月は無理に起き続ければ判断力が落ちるため、短時間眠ること自体は問題ないと答えた。 ただし自分が必ずそばにいて、呼吸と意識状態を確認し続けると伝える。 澪、朔、悠斗、蓮司の四人は、電話ボックス脇から山林へ伸びるケーブルを再び辿った。 小型無線中継器は倒木の裏へ防水ケースごと固定され、遠隔信号で公衆電話のベルや音声再生装置を動かせるようになっている。 先ほどは構造を確認するだけに留めていたが、今度は朔が書き込み防止用の機器を介し、ノートパソコンから保存領域の複製を始めた。 犯人へ接続を悟らせないため、通信機能そのものは切らず、記録だけを読み取る。「ログが残ってる」 朔の指が止まった。 端末には日時と送信先を示す記録が並び、今夜の着信だけでなく、数日前から試験信号
午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。 最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。 だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。 橋の外には人間が立てる足場などない。 それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。「奈々香!」 澪は反射的に彼女の左腕を引いた。 ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。 奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。 朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。 悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。 澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。 髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。 次の瞬間、力が消えた。 奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。 朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。 白い手はもうどこにもなかった。「動かないで。頭打った?」「髪……髪が……」 奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。 美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。 頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。 路面には髪が落ちていた。 十本や二十本ではない。 長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。 何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。「誰かいた?」 悠斗が欄干から下を照らす。「いない」 蓮司も別角度から橋の側面を確認した。 コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。 橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。 ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。 朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。 先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく
〈死亡予定時刻、午前一時十三分〉という自分自身の声を聞いてから、奈々香はまともに呼吸ができなくなっていた。 美月が肩へ手を置いてゆっくり息を吐くよう促しても、彼女の視線はスマートフォンの時計へ吸いついたまま離れない。 午前零時三十二分。 残り四十一分という数字が一つ減っただけで、奈々香は喉を押さえ、橋を出ると言って車へ向かって歩き出した。「ここにいたら死ぬ。私、帰る」 悠斗が追いかけ、蓮司も橋を離れるなら六人一緒だと制した。 誰も奈々香を一人にするつもりはなく、死亡予告が犯人の誘導である可能性を考えれば、指定場所から逃げることさえ罠になり得る。 それでも奈々香は首を振り、今いる場所こそ殺されるために選ばれた場所だと言いながら、震える手で車のドアを開けた。 運転席へ座った奈々香がスタートボタンを押すと、セルモーターすら回らなかった。 警告灯だけが一度点き、すぐにメーター全体が暗くなる。 奈々香は「なんで」と呟きながら何度も始動を試したが、結果は同じだった。 朔がすぐに運転席から降ろし、車体へ触れる前に周囲を撮影する。 蓮司が自分の車でも始動を試したが、そちらも反応せず、二台ともほぼ同時に電気系統を失っていた。 悠斗がスマートフォンを取り出して警察へ連絡しようとすると、アンテナ表示は消え、圏外になっている。 美月、蓮司、澪の端末も同じで、数分前まで使えていた位置情報共有も切れていた。 山間部とはいえ、橋へ到着した時点では弱いながら通信できていたため、自然な電波状況の変化だけでは説明しにくかった。「妨害されてる」 朔は山林側へ隠されていた無線中継器とは別に、広い帯域へ雑音を流す小型の妨害装置がある可能性を指摘した。 車の始動不能まで同じ設備で起こせるとは限らないが、少なくとも外部との連絡を切り、六人を橋周辺へ留める意図は明確だった。 彼は自分の端末を操作しながら、通信が完全に失われた時刻と奈々香への死亡予告が流れた時刻を並べ、偶然にしては近すぎると呟いた。「じゃあ、さっきの電話は?」 奈々香が自分の端末を差し出した。「圏外になる前にかかってきたんでしょ。誰から?」 朔は着信履歴を開き、しばらく画面を見たあと眉を寄せた。 そこには白石奈々香からの着信が存在しなかった。 通話記録にも、不在着信にも、午前零時三十一分の発信は
午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。 濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。 美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。 磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。「これ、透のです」 美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。 左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。 高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。 イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。 澪は河原の暗がりを見た。 七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。 その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。 確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」 蓮司の言葉に、美月は頷いた。 だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。 通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。 落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。「中に何か入ってる」 悠斗が顔を寄せる。「ここで開けるのか?」「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」 朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。 許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。 内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。「また記録媒体」 奈々香の声が小さくなる。 返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。 朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。 透は音響機器の